これを語りたい

悩みの大半はただの妄想だって話

この間、Facebookに同業者向けに書いた記事がそれなりに好評だったのでブログにも残しておこうと思います。

後半、同業者向けになっていますが前半は本の要約として楽しめると思いますので是非読んでみてください。

わたくしは18単位教の信者です

ユヴァル・ノア・ハラリという歴史学者がいる。

大ベストセラーとなった「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」の著者だ。 今や書店に行けば必ずといって良いほど見かける人類史の名著である。

彼によるとホモ・サピエンス、つまり人間が地球上を支配できたのは他の動物にはないある能力が備わっていたからだという。

それが「虚構の共有」である。

キョコウのキョウユウとはなんて言いにくい文章なんだろうという事はさておき、虚構の共有とは簡単に言えば、同じフィクションをみんなで信じる事ができるということである。

多勢に無勢という言葉がある。

どんなに力のある1匹よりも弱いが協力する何十何百匹には負けるということだ。動物には様々な種類があるが、その殆どが仲間同士で協力して生きている。それは人間も例外ではなく、今昔問わず人々は協力することで文明を築いてきた。

問題はその協力の仕方である。あらゆる動物は仲間の見分け方に関して“客観的事実”に基づいて判断している。見た目、鳴き声、形、匂いなど全て客観的に判別可能だ。

一方で人間はどういう風にコミュニティを形成しているか、それが先程もあった虚構の共有である。

現代で例えてみよう。我々はまずはじめに家族という仲間の一員となる。その次に同じ地域の子供たちと仲間を形成する。やがて学校、会社などといったコミュニティに属することとなる。視野を広げてみれば我々は日本国民でありアジア人である。

だがそのどれもが全てフィクションである事にお気付きだろうか。

家族というモノは現実には存在しない。匂いもしなければ家族という色もない。確かに家屋はあるかもしれないがそれはあくまで建物であって家族そのものではない。

考えてみれば家族を表す客観的要素は何一つない。これは家族だけでなく、学校や会社というコミュニティにもいえる。 人間がつくるあらゆるコミュニティは実態がないのである。

過去に遡ってみよう。

最も分かりやすいのが宗教である。 宗教を信じている人には申し訳ないが、神様というのは完全に人間の妄想である。 実際に神様にお会いした人は私の知る限り1人としていない。雲の上には天界など存在せず、その先にあるのは真空の宇宙空間である。

しかし我々はあたかも神様が存在するように感じる。 なぜか。 それは人間が妄想をあたかも現実であるかの様に錯覚できる動物だからである。

そして、人間はその妄想を他の人と共有できるのである。自分の妄想を他人も信じる。あっちの人もこっちの人もみんな自分と同じ神様という妄想を信じている。そうして出来上がった妄想集団が宗教である。

宗教だけでない、家族も会社も国家も全て妄想の共有なのである。

これがユヴァルのいう虚構の共有である。 そしてこの虚構の共有には他にない最大の利点がある。

それが大多数での協力である。

動物達が色や匂い、形などの客観的要素に基づいて仲間を識別していることは先程述べた。 しかしその方法では協力できる数に限界がある。 あなたは人間の他に何十、何百万という単位で協力している動物を見たことがあるだろうか。

残念だが一つとしてない。それは動物達がたとえ同じ種族でも全くの赤の他人とは信頼でし合えないからだ。信頼できないものは協力できない。

一方で人間の主観的要素を共有する協力方法、これを共同主観というが、これによる方法には事実上際限がない。 その最たる例がインターネットだ。

高度に発達した共同主観的概念はもはや顔さえ知らない赤の他人とも協力でき、その数は他の動物を歯牙にも掛けない。

多勢に無勢。人間はこの虚構の共有による圧倒的な数の力により全世界を支配したのである。

本題に入ろう。

病院で働く理学療法士には18単位/日というノルマがある。単位とは理学療法士業界独特の考え方であり、1単位=20分とし、1日に18単位分、つまり20分×18単位の時間を患者への理学療法に当てろという国からのお達しである。

社会人になっても尚、学生の様に単位を気にするのは甚だ滑稽だがこれは仕方ない。

さてそろそろ表題の18単位教の意味が分かってきたであろうか。 病院で働く我々が普段なんの疑問も持たずに達成している18単位/日という考え方こそがまさに共同主観に基づく概念であるということである。

つまり我々は知らず知らずの内に18単位を取る事が正しいという妄想を信じ込まされていたのである。 しかし蓋を開けてみるとその本質は宗教となんら変わりない。

つまり仮に上司から「18単位達成してないよ。どうなっているの?」と言われれば「私無信仰者なんで」と心の中で言いつつ平然と謝罪すべきなのである。

残念ながらこの考え方を声に出したところで我々の仕事量が18単位から14単位へ減る事はない、どころかしばかれるだろう。

しかし違った見方があれば時に心の余裕をもたらしてくれる。 世の中の常識は案外、常識ではなかったりするのだ。 その殆どが誰かが作った妄想である。

まとめに入ろう。

普段我々が当たり前だと思っていることの殆どは実態のない妄想であることが多い。 それを知ったところで現実は変わらないかもしれないが、違った見方は時に大きな発見を我々にもたらしてくれる。

常識を疑ってみること。

それこそが新しい発見への第一歩である。

今夜の名言

“信じることから始まるのが宗教なら疑うことから始めるのが科学です。” 「ガリレオ」ー湯川学

参考文献

「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ

「ホモ・デウス」 ユヴァル・ノア・ハラリ